北広島町在住のクリエイターmanboがビール片手にだらだら書く自己中な日記です。


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終戦記念日に、長文。

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いつぞや聞いていたポッドキャストで田原総一郎(当時中学生)が
玉音放送の話をしてくれていまして。痛烈に胸を打たれました。

自分は軍で国のために邁進することしか頭になかったのに、
突如突きつけられた敗北と終戦。
聞くや否や自分の部屋(2階)の布団に隠れ、泣き寝入りし、
目覚めたら夕方で薄暗く、窓から外を見ると、
家家の窓から明かりがたくさんん漏れていて、
ああ、これが終戦なのか、と、思った、と。

戦争中は、窓から明かりが漏れることが固く禁じられていたので、
明るい街並みに我に返った、と言われていました。
違うかもしれないんだけど、確かこんな話でした。

玉音ってのは、ざっくり言えば陛下の声のことなんですけど、
戦争は終わりました、と国民に知らせるラジオ放送。

「玉音放送」

諸説あるようですが、陛下が自らで伝えます、と申し出たと言う説もあり、
放送中に頬を拭われていた、陛下も涙しておられたのではないか、
との側近の話までも、最近になって浮上しておりまして、
我が国の国民としては、目頭の熱くなるワードなのであります。
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とても若い兵隊さんたちが、特攻前に家族へ書いた手紙もたくさん残ってるがどれも素晴らしい。

何がどうか全然わからんわ、と言う強者は、
玉音放送でぐぐるべし。

前回のコーリングの取材の際に、
リアルに聞いた話や、その時の手記なども拝見でき、
「思い出ぽろぽろ」。。じゃなかった、
「夕凪の国桜の街」・・でもなくて、
なんだっけ、いつぞや観に行ったあの映画、、、!
「この世界の片隅に」だ!


その中にもこの玉音放送のシーンはあるのですが、
「最後の一人になるまで戦うって言っとったじゃないか」
と、姪っ子を失ったすずさんは悔し涙を流し続けていました。

が、今回の手記にもそのセリフはめっちゃ書いてあって、
家族や資産を失った国民を励ますために
相当連呼されていたことがわかります。

さて。

玉音放送は天皇家ならではの言葉で語られました。
(有名なところでは、私→など)
一般市民が普段使っていた言葉とはかなり違っていたので、
教養のある人しか、きちんと理解できなかったとも言われています。
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たくさんの疎開児童がいた北広島町専教寺本堂

大人もさることながら、子供にはすっと理解できない言葉で語られた玉音放送。

疎開に引率していた教員の男性の手記には、
子供たちと共に玉音放送を聞いていたのですが、
最後の一人まで戦う、と信じていた自分の強い思いもあり、
苦労や辛抱を強いてきた子供達に、あまりにも
申し訳なくと思うと、溢れる涙が止まらなかった。と、
張り裂けるような思いが認められてありました。
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たくさんの疎開児童がいた北広島町専教寺本堂の天井

でも、疎開児童たちは「先生、どうなるん?僕ら帰れるん?」と、
質問してきて、「お母さんに会えるー!」と喜んでいたようでした。

誰も、先生を責めたりはしなかったのです。

しかし広島の中心地から疎開していた子供たちの両親は、
ほとんど被曝により亡くなっていたので、
彼らはその後、親戚や地域の住民、
2名は孤児院などにお世話になることになります。

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現在の北広島町専教寺

さて。
リアルに生きていた方々にお話を聞くと、
毎回新しい発見があります。

「投爆弾後、国の命令により近隣の農家が準備していたお米で、
被爆者たちに白いご飯のおにぎりが配られたそうですが、
多くの疎開児童がいた北広島町でも作ったのですか?」
と聞くと、「それは覚えていないけど、戦後5年くらいは
GHQ(アメリカ)からの配給で生活のほとんどをまかなっていたよ」
との話。

その時、日本にはなんの力も残ってなかったからね。と。

現金があっても、お店で売り買いすることはできず、
闇市でこっそり買うようない時代が5年も続いていたと。

その期間に教科書は全て作り変えられ、今に至っていると。
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5年間は「原爆」とか数々のワードが禁止されていたとも聞きました。
だから、被爆して亡くなった人たちには、別の病名がつけられていました。
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古典を基にした地域の神楽も9年くらいは禁止されていたそうです。
(でも、取締りの薄かった県北や島根県では、
割と早くから復活させていたようで、
当時の手記を見せていただいたことがありますが)
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うちから歩いて1分の有田神社での有田神楽団の皆様の舞

でも、いまだにその時の教育が続いているというのは、
なぜだろうーーー。
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例えば、一昨年参加せせていただいた長野県護国神社の
生存者や戦没者のご親類の参加される「パラオ慰霊祭」で伺った話だと、
5年で全て元の教科書に戻し、書き換えられたの歴史はすぐに、
「当時書き換えられた歴史」として、残った、と伺いました。
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だから、日本が撤退した後、中国が、いかに日本人が極悪非道であったか、
ということを書いた教科書をたくさん作ったのにも関わらず、
パラオ民(現人口約2万人)たちまた、当時の子孫は、
猛烈に親日で、日本兵の御社を作り、パラオで消えていった日本兵に、
今尚、敬意を評しているわけです。
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そして、現地集合で同伴させていただいたY氏は
お父様が帰還兵だった方だったので、
お父様の言葉でたくさんのパラオのお話を伺っていて、
それは本当にパラオへの愛情あふれるものだったそうです。
相思相愛です。
だからこそこのパラオ慰霊祭は、年々参加社が増加する
類いまれなる慰霊祭に成長しているのでしょう。

そう!このY氏のお父様の足跡をたどった手記が、
去年、潮出版社のドキュメンタリー大賞を受賞し、7月に本が出版されて、
ただいま取り寄せ中〜。ワクワク。また報告します!

。。。

では。
なぜ日本はそのまま進んだのだろうか、

軍国主義な教科書はもちろんダメだけど、
それ以外の、例えば、漢字の成り立ちや歴史など、
戻してもよかったのでは?と、
疑問を持ちつつ、暮らしておりました。

が、ある時、某国語教育の大家M先生に
ご質問させていただいたくチャンスがあり
聞いたところ、
「負けたことのない国だったから」
とおっしゃられておりました。

パラオはなんども占領下になっているので、
だいたいここら辺で、えい!っと、国の文化を継承するための
スキルがあったのだそうです。
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しかし日本は、数々の大国を相手に、勝利してきたサムライの国。

日本を視察しにきたオランダ人(だったかな)の手記にも
「日本人は道を歩くときも長い剣を腰につけ、いつでも人を斬ることができ、
めっちゃ強くて危ない。もっと平和な国を征服しよう」
などと書いていたようで。

だから、初めての敗戦であり、
敵国に対して非常に従順だったのです。と。

某大家の授業で学ぶ、漢字の成り立ちは非常に秀悦で、
先人の願いのこもった漢字は、震えるほど素晴らしいのだ。

本来の漢字の成り立ちには、国の歴史や先人の精神があり、
自分は繋がれてきた命の先頭を走っているんだ、と、
反省し、謙虚になることができる。

そろそろ、本来の漢字の成り立ちくらいは、
しれっと学校で教えてほしいなー。




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by manboblog | 2018-08-15 14:07 | 日々のつぶやき