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北広島町在住のクリエイターmanboがビール片手にだらだら書く自己中な日記です。


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母の旅立ちまでの、長いようで短かった話。前編。

母の旅立ちまでの、長いようで短かった話。前編。_e0115516_00592775.jpg
「胃の調子が悪いから病院に行きたい」とのことで、
一緒に検査へ行ったのが3年前。

「悪性リンパ腫の疑い」と病院で告げられ、
それと同時に化学療法しかありません。と告げられ、
2ヶ月間ほど検査やら入院やらしたものの、
みるみる弱っていき、PETCT(ペットCT)という放射能を体内に注入して、
腫瘍の散布具合を写す検査で一気に、ひいおばあさんのようになってしまった。

そもそも母は、病院が非常に好きな人間だった。
物心ついた頃から病院へめっちゃ行っていた。
私もたくさん連れて行かれたが、私は全く逆だった。

私は医者がみんな悪い人に見えて、いや、というか、
子供の頃の私は、先生と呼ばれる大人がほぼ全て気持ち悪い人間に見えていたのだが、
病院も学校も教会も胡散臭くて苦手だった。

で、その3年前、というのも、いつものことで、
同居しだしたのが4年前だったが、その間も、やれ検査だやれ治療だ、と、
度々、病院へは行っていたわけで。

母はとても構ってほしがりな人間だったので、病院へ連れて行けと言えば、
私が仕事を離れてでも離れてでも思い通りに動くので、
そう言っていたということは、当時もわかってはいたのだが、
私と言う人間は、いつだって母に反論するようなエネルギーを持ち合わせいなかったので、
その時もじゃあ行ってみようか、と、その時も一緒に病院へ行ったのだった。

で、大きな病院を紹介され、そこから、
文頭のような状況になってしまったのだった。

といっても、それは1箇所で終わった話ではなく、
数件の病院へ通った。というか、悪く言えばたらい回しのような感じだった。

当時私はデザイン業の傍、カフェなどを経営しており、
どうしても抜けられない日もあったりして、
そんな時は数年前から内職をしてくれてたO氏が付き添ってくれていた。

相談できるところもなかったので、本当にありがたい。

医者の言うように、こんなに元気なのに母は、死んでしまうのだろうか。
どうすればいいんだろうか。

あの頃、実に、一生分の涙を流した。
自分ってほんと、子供だなあ、と、痛感した。
たいていのことは寝たら忘れるような能天気な人間なのだが、
この時は母が死んでしまうのだ、と思いながら寝て、
目が覚めても、母は本当に死んでしまうんだ、と思って、日々過ごしていた。

「本当に」と言うのは、母はとにかくかまってちゃんだったので、
それこそ物心ついた時から、「私は早く死ぬんだから(大事にしろ)」と言っていたのだ。
幼い子供たちにそんなことを言い続けていたなんて、
それなりに辛いことがたくさんあったんだろうなあと大人になったらわかるんだけど、
私もマザコンはその呪いの言葉のおかげのように思えてならない。

母といて、心休まることなど、ひとときもなかった。
けど、私にとっては、母が笑顔であることのみが重要で、
自分が心休まる必要はなかったのだった。

話を戻すと、だがしかし。

医者の言う通りにしていては、どんどん弱ってしまう。
2ヶ月後には元気だった母の面影はすっかり消え、
病に侵された老婆そのものだった。

あるとき母は「もう病院には行きたくない」と、言った。
私は、母の人生だから、母の生きたいように生きて欲しいと思った。
だから「じゃあ、母さんが死んだら、それが寿命だったと私も思うことにするわ」
と、母に伝え、私も覚悟を決めた。

それからは病院へは一人で行った。
何しろ、行く日が決まっているもんだから、
行かないわけにもいかない状況なのだよ。

医者からはすぐに連れてこいと言われ、
家にも電話がかかってくる日々だったけど、
電話やらなんやらしつこいので「実はもうお金がないんです!」と言うと、
なんやかんやで電話もなくなり。

このころの母はカラダもメンタルも崩壊していたから、
「病院に行きたくない母」と「かまってちゃんな母」が錯綜し、
兄弟や親戚に心配のタネを撒き散らし、
「なぜ治療をしないのか」と私への抗議の電話やメールの対応。
母の不安と、抗議に対する愚痴。
(自分が周りを心配させてたんだけどね・・・)
1ヶ月は続いただろうか。

そうそう。
やるせない時間がどくどくと流れる中、
この曲は元気をくれたなあ。我ながら、意外なんだけども。
アイフォンに入れといて、マメに聞いてました。
今更ながら、照れるが、まあ、今でもおすすめなので貼り付けときます。


それから、一緒にバリに行こう!と、弱っていた母を元気付け、
母の回復を待って、家族でバリに行った。

そこで、信じられないほど元気になり、3年間、疲れやすくはあったけれども、
その後もハワイやフランスへ遊びに行けるほど、元気に楽しく暮らした。

てこともあって、バリには感謝してもしても、尽きないのである。

うちの子供達も、人格形成にとって大事な時間、
母のおかげでたくさん泣き、笑い、豊かに過ごすことができた。

母には感謝してもしてもしてもしても、尽きない。

振り返るとこの3年間で母の体を支えたものは、テルミーと言う温熱療法と、
月に一度のリンパマッサージだった。

食べ物は、なんでも食べたいものを食べた。
母のために買った、ありとあらゆる健康食品はほとんど食べなかった。
それらのものは、弱った時のカンフル剤的な役割しかなくて、
どうもすぐにからだが拒絶するようだった。

ただ、リンパ液が体内に漏れ始め、腹水となってたまりだしてからは、
動物性の食品は、腹水を助長させるものだった。
これは、最後の大きな発見。

腹水が急激にたまりだしたのは、今年の三月の初め頃。

とても早起きな母だったが、二月ごろには、朝、起きられなくなっていて、
四月に高校に入学した息子のお弁当は、ほとんど私が作っていた。
「起きられなくてごめんね」とよく言っていた。

部屋から出て食事も取りづらくなっていて、
起きないなーと思ったら、お茶や食べやすいものを部屋に運んで、
午前中はテルミーをしたりしていた。

私が忙しくてできない時は、お灸の先生が来てくれたり、
マッサージの先生がうちまで来てくれていて、本当に支えられた。

三月になって、目に見えてお腹が大きくなっていた頃。
リビングで母が自分の手を見ていた。
隣にいた私も、その視線の先に目をやった。

その手がとても細くなったのを見て、血の気が引いた。

腹水をネットで色々検索したり、ガンと戦ってる人たちに話を聞いたり、
漢方の先生に相談したり、状況を知るためにできることはなんでもやった。

でも、それは人それぞれすぎて、しかも母のように、
悪性リンパ腫を温め続けて元気に生きていた人の事例がなくて、
もう当たって砕けるしかないな、という状況だった。

「病院は絶対行きたくない」と言い続ける母に、
毎週手伝いに来てくれていたOさんが、
「60キロになったら、一度病院へ行きましょう」と母に優しく言った。
それには母も頷いて、その日から毎日体重を計るようになった。
私も母も、他のみんなも、祈るような気持ちで母の体重をチェックした。

あとで彼女が言うのには「体があれだけ痩せてきていて、体重が増えていたら、
それは腹水の増加と言う証拠です」とのことだったが、
メンタルの弱い母のために、あらゆることは伝えなかった。
腹水には栄養分が溜まっているそうで、腹水に栄養を取られてしまうと
体はどんどん痩せてしまうんだそうです。

あ、Oさんは、実は超ベテラン看護師さんだから、
本当に何よりも頼りになったのです。

四月三十日には、早めの私のBDと、GWで子供達が帰ってくるから、
近所の料亭あやくらでお祝いをしよう!とお祝い好きな母は三月から予約していたが、
その直前の二十四日、胸水による呼吸困難となり、急遽、入院することになった。

母が最後の夜にうちで食べたのは、カレーだった。
いつになく元気で、笑顔でよく食べた。

その朝、母は水を抜いたらすぐに家に帰るつもりだった。
でも私は、きっとそうはならないだろうと思ったので、
「パジャマとか買ってくるね」と、母から離れ、すぐにキャンセルの電話をいれた。
何しろ予約人数が多かったから。。

母のパジャマを買うのは、毎年のことだった。
パジャマだけじゃなくて、身の回りのものはたいてい私が買っていた。

私はとにかく、母がいつも笑顔でいてくれたら嬉しかった。

ほんと、そもそもあまり物欲のない私は、
買うなら自分のものより母のものだった。
美意識高いから、文句ばっかりな人だったんだけど、
喜んでくれる時もあったりなかったり。

そんなこともこんなことも全部、本当に、楽しい思い出になった。
楽しい旅を、母と共にできてよかった。
本当に、よかった〜。

そして映画のような終末へと続くのであった。

PS.処理しきれない状況や思いは、寝返りを繰り返してもお酒を飲んでも
もぐるぐるぐるぐる回るものです。そんな気持ちが癒される、KOHHの逸曲。↓


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by manboblog | 2017-07-17 01:31 | 日々の家